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講談社
グループ:Book
ランキング:21808
価格:¥ 1,575
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発売日:2007-09-11
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カスタマーレビュー ![]()
ウヨ曲折の「ギガヲタ」本
(2008-06-28)
いろいろ新しい発見はあろう。ウヨクがサヨク同様にだらしない現代ニッポンにおいては、それもまたさもありなん。葦津珍彦とか、福田恒存とか、下っては赤尾敏、野村秋介も鬼籍に入ってしまった今となっては。行動も理念もダメになったのだろう。ウヨクには現在見るべき思想的展開など皆無である。面白いと思えるものさえない。
したがって、ウヨク思想にアクチュアルだとかそんな聞いた風な語呂合わせをしてみても仕方ない。ウヨクはアクチュアルでないことがその存立基盤であり、絶対条件である。ことに戦後日本のウヨクにおいては。
だから、最後に自らの身体をのみ感じることになる。これをマッチョと言う。身体の不確かさを問うてみても、ご本人はアクチュアルだというのだからウヨクの御仁とは平行線を辿るだけだ。身体的修練が絶対視される。それが精神だとも言う。
デカルト主義でも学んだほうがよかろう。ウヨク的身体論には、自己所有の概念とか、自己決定権の論理は全く通用しないのである。
だから、著者はウヨクが「好き」などとのたまうのである。これを反知性と言う。社会性を欠くといってもほぼ同義だ。「僕はサヨクが好き」などという気持ち悪い物言いは、少なくともポーズだけであったとしても、サヨクは決して言うまい。間違っていても理念を問うだろう。
そういえば、三島由紀夫は森田必勝に「本など読むな」と言ったそうではないか。中村彰彦の森田を描いたノンフィクションにそうあった。
素朴、単純、イノセントに嫌韓流や嫌中国を叫ぶ人のなかには、ウヨクっぽいのが好きでそんなことを言う人が多いようにも思われる。
著者片山の音楽評論は随分と評判が高いが、評者には吉田秀和長老が絶賛するほどよいものとは思えない。特にその第2弾は、著者のマッチョな体質が全開していて、吉田がこれをも褒めることはないだろう。しかも、これは評者の偏見だが、ウヨクの癖に慎みがないのが、さすが新人類と呼ばれた世代だけのことはある(評者も同世代である)。
ウヨクを標榜する佐藤優は随分と戦略的だが、片山は戦略なんぞ歯牙にもかけていない。
何せ好きなんだから。論理もクソもないし、彼自身のオタッキーな興味の赴くままウヨクも音楽も批評してますってところだろう。評者は別にウヨクとオタクに親和性があるといっているのではない。
☆2つにしたのは、「よく調べました」と労に報いる気持ちの分だ。
右翼のジレンマ、ねじれ、その根幹としての「天皇」
(2008-02-24)
「あとがき」の「右が好きだった私としては、もちろん右翼の魅力を語りたい気持ちも強い」っていう言葉に対しては、「その思い、愛はちゃんと伝わってるよー」と返したい。いやぁ、とても刺戟的な本だった。
「ものの考えかたに全体の構造としてうまくゆかないところがあり、その中で堂々巡りをしているうちに、奇妙な想念にどんどん流れてしまう」っていう近代右翼思想の潮流がとってもうまく整理されていて、ほんとうに面白かった。「未来にぶらさがって現在を攻撃する左翼に対し、過去や現在に足場を置くのが右翼」とか、「反動は過去に反り返って動く。保守は現在を大事にする。左翼は未来に期待する」とか、そういった素人語りって「講談社選書メチエ」という一般書とは言え、なかなか扱いがイデオロギーだと、学者は言い切れないもんだと思うんだよね。全編を通じて、著者の潔さ、キレの良さを感じる。
「どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする」安岡正篤の存在にフォーカスしてページを割いているのが新鮮。理想の右翼と現実の右翼のジレンマっていうか。
いずれにしても、そのジレンマっていうかねじれの根幹に「天皇」があるっていうね。
本書は一応、1945年の敗戦に至る近代右翼思想について書かれている訳だけど、昨今の、よしりんとか、新しい歴史教科書をつくる会とか、「Will」とか、ネット右翼とか(十把一絡げにする訳じゃないけど...)の心情ってのも、決して戦前と切れている訳じゃないっていうか、右翼の根本問題はいまだ解決されていないっていうか。
それにしても、石原莞爾「世界最終戦論」の「今から三十年内外で人類の最後の決戦の時期に入り、五十年以内に世界が一つになる」なんて世界観は、経済に舞台を変えた今のグローバリズムってやつと寸分変わらない気がするな。
安岡など右翼という規定の仕方の範囲が狭い
(2007-11-13)
日本が大東亜戦争と名づけて敗北し、米軍の占領下におかれてから以後の、右翼思想分析は、GHQが暗黙のうちに推奨し奨励した丸山真男などの見方とそのエピゴーネンに共通しているものがある。国際性に満ちたとする左翼と異なり右翼はアプリオリに内向き思想との臆断である。そこから解析に無理が生じてくる。
この本は最近やたらと書きまくる佐藤優が文藝春秋11月号の書評欄で取上げていたので、興味をもった。そして、松本健一などと同系統に結局は属するとがっかりした。安岡が戦前にボースや朱経古との交遊、戦後、主権回復後の中国系の知識人との交遊の可能であった背景は、この著を読んでもわからない。東洋世界との一体感である。
次に、佐藤も取上げている安岡の本意についての片山の推測(天皇の師)は、あまりに皮相である。それは、安岡が楠の一統に連なるところから来る敬虔な姿勢に少し感情移入すればわかるところだ。そこから、終戦の詔勅への刪修の仕方も出てくるが、こうした見地は片山にも佐藤にもわからないであろう。
だが、片山のこれまでの偏見を捨ててわがこととして追求する態度には共感した。
目次に全てが集約されている
(2007-10-01)
本書については、まず目次を見て欲しいと思う。著者の「近代日本における右翼」の見通し、パースペクティブがここに集約されている。
第1章 右翼と革命
世の中を変えてみようとする、だがうまくゆかない
第2章 右翼と教養主義
どうせうまく変えられないならば、自分で変えようと思わないようにする
第3章 右翼と時間
変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる
第4章 右翼と身体
すべてを受け入れ頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る
その後、まず本書の「まえがき」と「あとがき」を読んで欲しい。
「教義」が体系化され、「教典」を持っている左翼思想の一部としてのマルクス主義に比較し、右翼思想というのは、体系的な思想として見えてこないきらいがある。いわば、右翼には、行動主義と情念はあっても、思想はないということだ。近代日本の右翼思想の源流に日本流の陽明学を措定した小島毅氏の「近代日本の陽明学」にも、同じよう視点があるようにも見受けられる。
しかし、本書の視点からは、少なくとも近代日本における右翼思想は、どうしても思想として一本貫くことのできない宿命のようなものがあり、その結果、鵺のような存在になってしまったのだということがよく分かる。この視点からすれば、右翼思想を思想として存在感のあるものとして、改めて批判的に見ることができるようになる気がする。
なお、本書の「まえがき」における、左翼、保守、右翼の内包の整理は、大鉈過ぎるとも言えるが、これ位の整理からはじめて、更なる精緻化を議論するのが良いと思う。この点も、本書を繙いた成果であった。
右翼思想の全体像へ
(2007-09-23)
近代日本右翼思想史構築への第一歩。すこぶるおもしろい本である。自己のオリジナルな論説をリズミカルにたたみかけてくるような気のきいた文章もすばらしい。
気に入らない現在を変革するために、悠久の天皇のいる過去を鑑として現在に向き合うが、その現在にもしかし天皇はいるので、抜本的な世界革命はおこせず、どん詰まりになり、けれどそのどん詰まりぶりが多種多様な思想に結実する、という右翼思想の魅力(?)を、著者はごくごく明解に示していく。しかも、本書では北一輝や大川周明といったような有名どころよりも、よりマイナーな、というかその言い分が低レベルとみなされバカにされがちな右翼思想家や日本精神主義者、あるいは意外な作家や哲学者などが主に取り上げられる。
全体を通して非常に興味ぶかいが、私的に特に関心をひかれた所が三点ほど。第一に、政治家や企業経営者たちの導師として著名な安岡正篤を、大正教養主義とりわけ阿部次郎の思想の右翼化として位置づける説明。第二に、西田幾多郎の哲学からある種の葛藤が抜け落ちその論理だけが「今」を絶対視するファッショ的思念に転化していった過程の確認。それから、日本人の正しい姿勢や身体技法を涵養することの大切さを主張することが、やがて国家を文字通り死守する国民を育む思想に帰結してしまった、という今日でも(でこそ)妙にリアルに感じられる言説を展開した、佐藤通次という哲学者の身体論の再発見、である。こういう系譜があったか!とか、こんなこと考えていた人物がいたのか!!という思想史的な驚きに満ちているのである。
著者も述べているように、これは「ささやかな第一歩」の書物である。今後、著者本人、あるいは本書に触発された論者による、さらなる右翼思想史の探求がこころみられる予定なわけだ。どんな新しい見方がありいかなる思想家がいまだ埋もれているのだろう?とわくわくしてしまうではないか。

