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本願寺出版社
グループ:Book
ランキング:110967
価格:¥ 1,470
ポイント:14 pt
発売日:2007-03
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カスタマーレビュー ![]()
現代における新しい『歎異抄』として…
(2007-12-07)
まずもって、池田晶子(本名伊藤晶子)さんが本年2月23日、逝去されたことに対して、心からのご冥福をお祈り申し上げたい。46歳の、あまりにも若すぎる帰泉であり、あまりにも早すぎる旅立ちであった。池田さんには、これからも寄る辺なき時代を生きる人々の歩む道の前方を、明るく照らして欲しかった…。実に残念でならない。
さて、本書は「自分の言葉」を持った二人の碩学の対話(ダイアローグ)記録である。全体としては、<知=哲学>と<信=信仰(宗教)>を巡って、専ら池田さんが真理を追究する「知」の立場からの問いを発し、大峯顯先生が「信」をベースに答える、といった内容で、池田さんの「知」への誠実さ、大峯先生の「信」に対する真摯さと深い確信が行間から伝わってくる。
加えて当書では、池田さんには失礼な物言いかも知れないけれど、あたかも『歎異抄』のごとく「何の飾り気もない率直な対話」が見事に成立している。というのも、『歎異抄』の筆者であるとされる唯円は、親鸞の「言葉を引き出し、生き生きと記しとどめた」のであるが、彼は「真面目一途な求道(ぐどう)の態度」の持ち主らしかったからである(末木文美士『日本仏教史』)。
池田さんの思想は西洋哲学を基礎としており、直接的には浄土真宗との結びつきはない。だが私は、池田さんと親鸞の直弟・唯円には、共に“真面目一途な求道者”という一点において、二人の姿が重なってみえてしまう。そして池田さんは、たとえば本書の中で大峯先生が語る「仏教の内在的超越」「信心の智慧」などの言葉を引き受けられる哲学者になっていったかもしれない…。
知と信のはざまで考える
(2007-10-30)
まえがき 大峯顯 あとがき 池田晶子 2007年2月とあります。池田さんは2月23日逝去 大峯氏は阪大、龍谷大と教授をされ浄土真宗教学研究所長をされた方だそうです。
あとがきで池田さんが書かれているように、まさに「知と信とのはざま」での愛のある戦いのようです。あまりに深く広い内容で自分の許容範囲を大きく越えています。付箋だらけです。そんな訳で備忘録的にお二人の会話の一部を後日の思索のために書き留めたい。
「暮らしの哲学」の中でも池田さんが取り上げているが、ここでも大峯さんの俳句「虫の夜の 星空に浮く 地球かな」に対してその宇宙観を尋ねています。科学などで到底理解出来ない、自分の心の中にある星空を。
自分は死なないと思っている人たち。生のリアリティーがないのは死のリアリティーがないから。死を直接見る機会がなくなっていたり、見せないような世界であると指摘している。菩薩は真理に向かっている存在。菩薩ですよあなたは(池田をさして)。愛知者というのはどうでしょうか。(池田) 自分だけが知を愛するんじゃなくて、すべての人を愛知に入れたいという願いを持っている人。愛知を共有したいと思う人、それが菩薩です。自分だけの自己満足じゃなくて、すべての人と真理を共有したいという心。(大峯)
幸せという言葉を先に立てるのが、間違いのもとです(笑)。それを欲しがるから、それが苦しむことになるんですね。だから、そんなことは考えないほうがいいです。幸せとは何かなんてことを言うと不幸になる(笑)。(池田)やっぱり愛は教えられないと分からないですよ。愛されないと。愛を学ぶ道は自分が愛されることしかない。物質が与えられていないとかそういうことじゃなくて、愛が与えられていないんだ。(大峯)親鸞聖人という人にはセクト意識がない。たとえば浄土真宗という言葉で彼が言っているのは、自分の宗派の思想、自分の個人の思想ではなく真理の名前なんです。(大峯)自分というものが実は他者によって自分であるということに気がつくというのは、そこには大変な一線があります。(池田)
なぜ知ることを愛するかというと、知ることにより人生が知られるかれであり、「知る」とは、この人生の何であるかを知るということ意外の何ものでもない。しかし、この当たり前のことを当たり前に語る学者の何と少ないことか。(池田 あとがき)
「考えること」にご自分の人生を捧げ、そして今も宇宙で思索されている池田晶子さんに合掌。そして「考えること」の大切さを教えていただき有難うございました。
「究極」の向こう
(2007-10-21)
存在が存在である。その一点を見つめ続けた池田晶子さん。その臨界点を軽やかに飛び越えてみせる大峯氏。禁じ手であることは恐らく承知の上で、思考の限界をすり抜けるその老獪さは、あるいは、どこかしら禅的と言えるのかもしれない。それが仏者の深さ故なのか、ただのペテンなのか私にはわからなかった。ただ大きな衝撃を受けたことは間違いない。
一見もの別れにも見えるこの対談だが、二人の言葉のやり取りの向こうには確かな信頼関係があり、同じ一点を見据えているのは間違いないと思う。本書の前半部分で語られているのは両者に共有された部分であり、逆に後半部分では仏者と哲学者というスタンスの違いがはっきりと現れているように感じた。
ここに描かれた事態とどう向き合うのか、残された私たちに突きつけられた課題なのかもしれない。
裸足で山へ登ろうとした人
(2007-05-23)
「自分ってなんだろう」「人生ってなんだろう」という疑問をもつと
人はよく、宗教的になったり、哲学的になったりする。
でもたいてい途中で追求をやめてしまう。なぜなら、答えがなかなか得られないから。
この本は、それを追求しつづける人たちへのエールである。
宗教や哲学など、道は違えど、とことん考えることを肯定する。
そして疑問を放置せずそれぞれの道をいくことで
逆説的に、それらの間の壁をとりはらっていく。
道の行く先は、やはり幸福なのでしょう。
「知る」とは人生を知ること
(2007-03-11)
池田晶子さんが、術後の体で臨んだ最後の対談録です。
言葉に魂が宿っています。力がほとばしっています。
君自身に還れ、とは哲学者フィヒテの言葉です。
曰く、「君自身に還れ。君の外にあるものすべてから目を向け変えて、自分の中へ還れ。これが哲学というものが哲学者に対してするところの第一の要求だ」
答えのない問いがこの世に存在するのだということ。
それについてどこまでを言葉によって思考をめぐらしていくこと。
インターネットなどの情報氾濫の中で、あるいは「勝ち」「負け」の時代風潮の中で、
本当に大事なことはなにか。価値のあることは何か。人生とは何か。
知と信、そして存在の絶対不可解を巡って、仏教学者にして住職の大嶺氏と大いに語り合っています。
エゴイズムが飽和して、破綻に向かっているような感のある現代において、
池田晶子さんの存在は希望のよすがでした。心からご冥福をお祈り申し上げます。

